考える力の重要性
一つ一つの決断が人生を決めていく
人生というのは、決断の連続ではないでしょうか。例えば、コップを右手で持つか左手で持つかといったようなささいなことから、上司を説得するために何と言うかとか、どこの大学を受験するかとか、誰と仲良くしようかとか、私たちは常に決断をしながら生きているのではないでしょうか。そしてその一つ一つの決断が、自分の人生を決めていっているのではないでしょうか。重要な場面で良い決断ができれば、自分の人生を良い方向に持っていくことができるでしょうし、いつも何事に対してもできるだけ良い決断ができれば、自分の人生をできるだけ良いものにしていけるのではないでしょうか。
良い決断をするためには、ささいなことでも重要なことでも、「自分でうまく考える」ということが重要ではないでしょうか。何も考えずにただなんとなく決断してしまったり、一生懸命考えてもうまく考えることができなかったり、自分の価値観に合った判断ができなかったりすると、良い決断はなかなかできないのではないでしょうか。
詰め込み教育の欠点と限界
今の世の中では、社会でも家庭でも学校でも、「こういうときはこうしなさい」とか、「これはしちゃいけない」とか、「これが正解」とか、決まった知識をたくさん教え込む、いわゆる詰め込み式の教育が多く行われているのではないでしょうか。しかし、世の中で自分の目の前に起こる出来事というのは無数にあり、一見すると似たようなケースに見えても、他の場面と全てが100パーセント同じ状態ということはなく、同じように行動しても同じような結果にはならないこともあるでしょう。どんな時にどんな状況でどんなことを考えるかというケースは無数にあり、常に新しい出来事が次々と起こっていくという中で、詰め込み式の教育で、いつもうまく行動できるようになれるでしょうか。
例えば会話をする場合、同じような場面で同じようなことを伝えるのでも、会話をする相手によって、どう言ったらすぐにうまく伝わるかは違ったりするでしょう。同じ相手に同じことを伝えるのでも、相手の機嫌がちょっと違ったりすれば、うまく伝える方法というのは変わってきたりもするでしょう。
詰め込み式の教育で、人生で起こるすべてのことについて、最善な決断方法をすべて正確にうまく教え込んでおくことができるでしょうか。また、詰め込み式の教育で育てられた人間が、知識を詰め込まれていない出来事に出くわした時、臨機応変にうまく行動できるでしょうか。人それぞれいろいろな価値観を持っているでしょうが、詰め込み式の教育で、自分の人生をできるだけ良くするようにいつも自分の価値観で決断できる人間になれるでしょうか、他の人の価値観を考慮して行動できる人間になれるでしょうか。詰め込み式の教育で単に知識はたくさんあったとしても、それをうまく有効に使う方法がわかっていなければ、持っている知識をうまく使えなかったり、知識を間違って使ってしまったりすることもあるのではないでしょうか。
昔に比べて、生活が豊かになったり子供の数が減ったりして、そして大学進学率も上がったりして、子供が手とり足とり教育を受ける時間は昔よりも長くなっているようですが、しかしそれでも、コミュニケーションが苦手な人が多かったり、言われたことしかできない人が多かったり、リーダーシップをうまく取ることができない人が多かったり、すぐに不安や憂鬱になってしまう人が多かったりするのは、詰め込み式の教育はたくさん受けていて知識の量は多くても、自分で考える力はうまく育てられていない人が多いからではないでしょうか。
自分の可能性を最大限に引き出せれば
決断の連続である人生で、いつも何事に対してもできるだけ良い決断ができれば、勉強でも仕事でもスポーツでも趣味でもコミュニケーションでも人間関係でも、本来自分が得られる可能性のある最大限の良い結果が得られるでしょう。それは、自分ができるだけ「自由」になれるということでもあり、自分ができるだけ豊かになれたり平和になれたりすることでもあり、自分の人生にとって一番頼れる能力なのではないでしょうか。
今の世の中の人々は、その自分の可能性をどのくらい引き出せているでしょうか。いつも一生懸命に生きているという人でも、実際のところ、いつもその場の状況に応じて臨機応変にできるだけうまく行動できているでしょうか、いつもできるだけ努力を効率良く結果に結びつけられているでしょうか、いつもできるだけ効率良く何かを上達できているでしょうか。
例えば、ボールを投げるとき、うまく投げられる方法をわかっていないで、ただてきとうに体を動かしただけでは、うまく投げられるかは、事実上、運次第のようになってしまうでしょう。その状態のまま、同じことを一生懸命繰り返していても、なかなかうまくできるようにはならないでしょう。ただ中には、たまたま運良くうまくできるやり方がなんとなくできてしまう人もいて、そういう人が、周りから、「天才」だとか「才能のある人」だとかと言われたりするのではないでしょうか。ただ実際は、最初はうまくできない人でも、「普通」とか「才能がない」とか言われている人でも、うまく考えるということができて、自分が一番うまく投げられる方法・感覚を自分で見つけ出していくことができれば、「天才」だとか「才能のある人」だとかと同じようなことやそれ以上のことができるようになったりもるでしょう。ボールを投げることに限らず、いつも何事に対してもできるだけ良い決断ができるようになれば、そうして自分の可能性を最大限に引き出せるようになれば、「天才」だとか「才能のある人」だとかと呼ばれるような人を努力で超えていけることも多いのではないでしょうか。(まあ、今の世の中では、自分の可能性を最大限に引き出す方法をわかっていない人が多いので、その人たちにとっては、「天才」「才能のある人」と呼ばれる人は、実際問題として自分たちにはどんなにがんばってもとうていまねできない、「天才」「才能のある人」という存在になってしまうのでしょうが。)
安定した精神で有意義な人生を
いつも自分でうまく考えることができるようになれば、自分の中にとても頼れるものができて、どうしたらいいかわからなくて困ったり決断ができなくて悩んだりすることも少なくなるでしょう。また、いつもきちんと自分の価値観と意志で行動できて、後悔したりすることも減るでしょう。自分の思い通りや理想通りに物事が運ぶことも多くなり、人生を安定した精神状態で有意義に過ごしやすくもなるでしょう。
世の中、社会にも大きな影響
今は昔に比べて、環境の変化が早く、今までに起こったことのないことなども次々に起こる時代でしょう。また、産業界などにおいては国際競争なども激しい時代でしょう。しかし、みんながいつも物事をうまく考えられるようになれば、みんなそれぞれ、自分の得意分野で新しいものをうまく生み出していけるようになったり、その場の状況に応じた高い価値を生み出す仕事ができるようになったりもするでしょう。
「経済」というのは、みんなが生み出した「価値」を交換し合うところで、社会では、みんながそれぞれ生み出した価値を、お金という道具を使って交換し合っていますが、みんながいつも物事をうまく考えられるようになれば、みんなが効率良く多くの価値や高い価値を生み出せるようになって(いわゆる生産性が上がって)、そしてその多くの価値や高い価値をみんなでうまく交換し合えるようになって、みんな経済的にもとても豊かになれるでしょう。
社会の平和や安全ということについても、みんながうまく考えることができるようになれば、みんな自分で勝手に、「戦争だとかいじめだとか詐欺だとか足の引っ張り合いだとかをするより、みんなうまく協力し合った方が結局みんな得できそうだ」とか判断できるようになって、みんな自分から平和で安全な社会を作ろうとするようになるのではないでしょうか。そして、みんなが物事をうまく考えることができるようになれば、みんないつも臨機応変に周囲にとって本当に良い行動を取れるようになったりもし、できるだけ平和で安全な社会が自然に実現できてくるのではないでしょうか。
良い社会を作るには、法律だとか規則だとか道徳的行動だとか一部の人の価値観だとかをただ強制的に押し付けようとしたりするより、一人一人が自分で社会の価値を理解できるようになったり、一人一人が本当に社会の価値を最大限引き出す行動をいつもできるようになったりするように、一人一人の考える力を向上させるようにした方が良いのではないでしょうか。
みんながいつも物事をうまく考えることができるようになれば、個人個人が自分で自分の人生をできるだけ良いものにしていけるようになり、そして社会という、みんなの人生に大きな影響があるものも、みんな自身でできるだけ良いものにしていけるようになるのではないでしょうか。